1 − 日産からBe−1の話しがあった時、それは具体的にどのような内容でしたか?そして、それは途中で変更され るようなことがありましたか?
「当時はホンダのノッポのシティーが人気があり、日産としては、それに対抗出来るマーチのリニューアル・プランを検討していました。つまり本来はニューマーチを期待されたプロジェクトでしたが、我々が提案したB-1(Be-1の当時のコードネーム)のコンセプトは大変インパクトがあり評価されましたが、反面一般市販車としては適切なデザインではないという判断でした。しかし、モーターショーの予想を超えた大人気を受けて1万台限定のパイクカーとして発売しようということになりました。Be-1の発売は結果として300億円に換算出来るノンペイドパブを生み出し、当時の日産の人気の回復には成功しました。」
2 − そのBe−1の依頼の時、坂井さんご自身は直感的にその内容をどのように受け止め、理解されましたか?
「当時の僕はクルマには、さほど興味がなく免許も持っていませんでした。しかし、日産は却ってそれを面白がるようなところもありました。結局当時の僕の専門分野であったファッション・デザインとして、マーチというシャーシの上に乗せるパッケージの着せ替えとしてカー・デザインを考えてみようと思いました。あるいは町の風景としてカーデザインを考えてみようと思いました。」
3 − 発表するまで、最もご苦労されたのはどのようなことでしたか?
「当時の清水潤主管や渋江建男さんなどが、とても協力的で、我々のそれまでのカーデザインの常識を覆すような提案を、とても面白がってくれました。つまり、我々はたいした苦労をした覚えはないのですが、いろいろな部署への頻繁なプレゼンテーションは行いましたし、開発の過程の議事録は丹念にとり、その資料が日産社内を回覧し、結果的に根回しの役割を果たしました。しかし、大半の日産マンは反対意見であったようです。」
4 − その時の日産の企業としての評価はどのようになりますか?
「それまでの僕のいたファッション・ビジネス業界は、今のIT産業のように起業が用意な新興産業でした。それに対して日産をはじめとした自動車産業は重厚長大と言われ国家権力にもっとも近い、まったく我々と反対の価値観にある産業でした。当時はまだ日産が、トヨタやホンダと、どう違うかというほどの見識を自動車業界に対して持っていませんでした。つまり僕にとっては完全な未知の分野であったわけです。そして、日産のカーデザイナーもまた我々を異星人のように見ていたに違いありません。」
5 − 最終的にBe−1の出来は坂井さんにとって満足の出来るものでしたか?もし、どうしても納得出来ない箇所があればお話しいただけますか?
「Be-1のデザインは、我々のコンセプトワークを率直に表現していました。そして、まだ若かった古場田良郎さんのデザインは大変満足出来るものでした。ただし、生産期間が短かったためプロダクト・クォリティーは、今一歩でしたが、ラウンドシェイプに代表されるデザインに関する実験は、あの時点ですべて達成出来たと思っています。」
6 − 発表するとスゴイ反響でした。この時の感想と、坂井さんご自身のアイデンティティに与えた影響は何ですか?
「そうですね。まず1985年の東京モーターショーに展示されたBe-1のモックアップは、どの車よりも人気が高く、人だかりもすごかったこと。そして人々の発する賞賛の声は意外とシンプルで「可愛い」と「欲しい」という直感的な言葉に集約されていました。当時の僕自身は40歳になろうとしていたときで、このBe-1の経験からWATER STUDIOは、今までのファッション・ビジネスからプロダクト・デザインのコンセプトワークを行う専門の会社に変貌しました。僕自身の「すべての分野のデザインの基本は同じ」という仮説が証明されたことが、アイデンティティに与えた影響と言えるかもしれません。」

